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2024.10.13

日本の6大家具産地について

Story&Factoryの家具はすべて、「メイドインジャパン」のプロダクトであり、すべての製造プロセスを日本国内のパートナー工場で行っています。特に北海道旭川市、静岡県静岡市、岐阜県高山市、徳島県徳島市、広島県府中市、福岡県大川市は「日本6大家具産地」と呼ばれ、それぞれが独自の歴史と技術、文化を持ちながら、国内外で高い評価を誇るメイドインジャパンの家具を作り続けています。

ここではそんな日本の家具生産をリードしてきた産地がそれぞれどんなルーツを持ち、どんな技術を継承しながら家具を生産しているのかをご紹介したいと思います。

豊かな自然環境と職人の技術、そしてデザイン性の高さが特徴の旭川家具

旭川家具の起源は明治時代にさかのぼります。当時、北海道開拓が進められ、鉄道や第7師団の建物を作るために多くの職人が本州から旭川周辺に移住してきました。この地域は豊かな森林資源に恵まれていたものの、冬には雪が積もるため天然乾燥ができず、木工業には適していませんでした。しかし人工乾燥機の普及と共に冬場の農業に代わる産業として大きく発展します。

戦後は日本全体が復興に向けて進む中、旭川では工場の整備や技術者の育成が進み、家具製造も本格化。高度経済成長期には住宅需要の増加とともに家具の需要も増え、旭川家具は全国的なブランドに成長します。

現在も毎年「旭川デザインウィーク(AWD)」、3年に一度「国際家具デザインフェア旭川(IFDA)」が開催されるなど、インテリアデザインの発信地として世界中のバイヤーや消費者に支持されています。

徳川三代将軍によって集められた職人の技と伝統を現代に

静岡家具のルーツは江戸時代。1935年徳川三代将軍家光が初代家康の隠居先として栄えた駿府(現在の静岡市)に静岡浅間神社を造営する際、全国各地から木工、漆工、彫刻などの職人が集められました。彼らはその後この地に住み着き、漆器づくりやその技術を活かした鏡台などの木製品を作り始めたのですが、この技術が今日の家具産業にも受け継がれていると言われます。

静岡県を代表する家具と言えば、ドレッサーやサイドボード、食器棚など、いわゆる「箱もの」。これは明治時代の西洋鏡台、大正時代の茶箪笥などの和家具、昭和30年代以降のドレッサーやサイドボード、食器棚など、それぞれの時代の生活様式に柔軟に対応してきた静岡家具の挑戦を物語っています。

伝統を守りながらも、時代のニーズに合わせたチャレンジスピリッツが根付く静岡家具は、顧客のニーズに柔軟に応えることができるように大量生産から多品種少量生産に舵を切り、職人技と歴史を大切にしたものづくりへの挑戦を今も続けています。

「飛騨の匠」の伝統を引き継ぐ曲げ木の椅子づくり

飛騨の地は古くから木工技術に秀でた地域として知られており、その起源は奈良時代にまでさかのぼります。奈良時代〜平安時代にかけて、飛騨の木工職人たちが「飛騨の匠」として朝廷に仕え、平城京や後の平安京の都造りに貢献したと言われます。彼らの技術は建築のみならず、家具や日用品の製造にも応用され、次第に地域産業として根付いていきました。

森林率が90%を超える飛騨高山は豊かな広葉樹林に恵まれた土地。特にブナ、ナラ、クリなどが豊富に採れるため家具づくりには最適と思われがちです。しかし乾燥が難しいブナなどは、狂ったり腐敗したりしやすく、当時は使えない木とされていました。それを一変させたのが「曲げ木」の技術です。「曲げ木」とは木材を蒸気で柔らかくし、型に入れて曲げる技術。当時、ドイツにおいてトーネットが生み出したこの最先端技術が飛騨の家具産業に大きな影響を与えます。

この「曲げ木」の技術に最適だったのが、使えないとされていたブナ。硬さに加えて粘り気の強いブナ材は曲げ木にはぴったりの素材だったのです。この曲げ木の技術をきっかけに飛騨は椅子を中心とした家具産地へと発展していきました。

昭和天皇の婚礼品にも選ばれた阿波の鏡台

徳島家具は阿波水軍の船大工をルーツにもちます。戦国末期、当時の阿波国(徳島県)に入国した蜂須賀家政が水軍基地や船を作らせるために船大工が集められました。その彼らが生活用品(指物)を作り始めたのが徳島の木工業のはじまりと言われます。

明治に入り、彼らは本格的に箪笥や鏡台、仏壇などを作り始め、それは「阿波鏡台」へと繋がっていきます。阿波鏡台は鏡台の中でも高級品として評価が高く、主に婚礼家具として人気を集めました。そのキッカケとなったのが、昭和天皇のご婚礼の際に阿波鏡台が選ばれたというエピソード。阿波鏡台が高品質であることの象徴として語り継がれ、徳島家具の名声を高めた一因とも言われています。今では婚礼家具や鏡台の需要はすっかり無くなってしまいましたが、徳島の椅子工場を見学した際、以前は鏡台用の椅子を作っていたという話を伺いました。伝統の阿波鏡台の技術が今はダイニングチェアへと着実に受け継がれています。

桐箪笥づくりの伝統的技法を現代の家具作りへ活かす

府中家具の始まりは今から約300年前。着物を収納する衣裳箪笥は江戸時代に大阪で作られたのが最初とされているのですが、そこで学んだ内山円三が故郷の有麿村(現在の福山市)で箪笥作りを始めたことが起源と言われています。その内山に影響を受けた職人達が技術を学び、箪笥作りは徐々に近隣の府中へと広がっていきます。

この地域で木工技術が発展したのは、地理的な利点とともに、豊かな森林資源が存在したことが大きな要因でした。近隣の中国山地から伐り出される良質な木材を芦田川に流し、福山方面へと運搬。雨が少ない瀬戸内の温かな気候で木材を自然乾燥させ、木工業は栄えていきました。

府中の箪笥といえば、婚礼家具で有名な桐箪笥です。その昔、農家では娘が生まれると庭に桐の苗木を植え、嫁ぐ時にはその桐を伐って嫁入り箪笥を作ったと言います。この地域には「備後桐」と呼ばれる良質な桐が自生しており、福島県の「会津桐」や岩手の「南部桐」とともに桐の名産地でした。そんな豊富な桐材を使って、府中の「桐箪笥」のほかにも、「松永下駄」や「福山琴」など数々の伝統工芸品が生まれました。時代の変化とともにこれらの伝統工芸品の需要は減ってきていますが、木材を接合する際に釘や金具を使わず、木材同士の組み合わせで見た目の美しさと堅牢さを両立させる「木組み」の技法などは脈々と受け継がれ、現代の家具づくりにも活かされています。

生産に必要な専門業者が全て集まっている日本最大の家具生産地

日本最大の家具生産地である福岡県大川市。北部九州の大動脈と言われる筑後川から有明海に繋がる河口に位置する大川市は、木材の産地である大分県日田市から川を下ってくる木材の集積地であり、海上交通の要所でした。当時「榎津」と呼ばれたその地には、船の製造や修理をする高度な木工技術を持つ船大工が集まり、やがてその技術を活かして作る指物を「榎津指物」と呼ぶようになりました。これが今の大川家具の原点と言われます。

大川家具が本格的に発展したのは明治時代以降。産業革命により日本全国で工業化が進みましたが、大川でも伝統的な木工技術に加えて、新しい機械技術を取り入れ、量産体制を築くことで家具産業が大いに発展しました。それが戦後の婚礼家具需要の高まりによってさらに加速していきます。

更に大川の強みは町の中に家具製造工場だけでなく、材木店、塗料店、運輸業者など生産に必要な専門業者が全て集まっているということ。一枚板から張り物用の木材から塗料まで町に何でも揃っていて、ベニア1枚からすぐに持ってきてくれる。なにしろ大川市役所には「インテリア課」があるというくらいです。街全体が家具作りを中心に動いている!と言っても決して言い過ぎではないと思います。

いかがでしたでしょうか?

ひとつひとつのプロダクトに物語があるように、それぞれの産地にも歴史や物語があります。そんな物語に触れることで、またひとつ家具への愛着が増していくような気がしますね。

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